2021年10月28日木曜日

孤独の哲学

朝焼けで丘の上が山火事のようだ

 



電波塔が炎に包まれているよう。

 孤独とは、望ましくない状態なのだろうか。孤独死、独り暮らし、孤食、ポッチ……孤独には負のイメージが常に付きまとう。いまは政府までもが孤独・孤立対策担当室を設け、「社会的不安に寄り添い、深刻化する社会的な孤独・孤立の問題について総合的な対策を推進する」とPRする時代なのだ。格差拡大を広げる政策を推進し、その問題を深刻化させてきた張本人が、恥ずかしげもなく“良政”を善導するポーズには、いつもながら呆れるしかない。政府の言う孤独・孤立問題は、経済政策が招いた貧困問題であり、それを掲げて「取り組む」といえないところは、問題のすり替え、政治的レトリックだと思う。

 「孤独の哲学」(原一郎訳)の著者、J.クーパー・ポウイスは、孤独こそ「われわれの人格の駆動力であり、エネルギーであり、意志であり、磁力に満ちた中核でもある」と説く。「人間は心の奥底では誰もみな孤独なのだ。子供においてもそのとおりであり、成長してゆく若者もそのとおりだ。そして年を取るほどわれわれはいっそう孤独になるのだ。人間が他の人間に与えることのできる一番賢い忠告は、この自然の法則を受け入れることだ」

 コミュ障などと言って、あたかもコミュニケーション能力こそが人物評価のものさしと言わんばかりの風潮がはびこっているが、本末転倒だろう。自分の孤独に向き合えずに、コミュニケーションもなにもないだろう。
 ポウイスは書く。「互いに模倣し合い、和解し合い、ほめ合い、羨み合い、競争し合い、苦しめ合っている大勢の人間の流れるままに漂ってゆく、頭脳を欠いた群居性は、自己本来の孤独から逃れようとする企てなのだ。意志の努力によって自分の魂の孤立性を強めるわれわれの力は、大多数の人間があまりにも容易に忘れてしまっているところの或るものだ」

 「集団や群集の中において楽しみを求める人は、真赤な頬と、きらきら光る目と、騒々しい笑い声を得ることができる。しかし人々が、ほんの些細なものの中に子供たちが感じるあの喜びに似た幸福感を感ずることができるのは、孤独においてだけである」


 その孤独な魂を解放するために、ポウイスが繰り返し述べるのは、宇宙万物の根源的元祖である地・水・火・風の4大エレメントの神秘に沈潜することだ。それをわたしは、こう解釈する。
 人気のない大地に立ち、流れる雲を眺め、光と影のゆらぎにじっと目をやり、風を五感で感じること。その中に身をおくとき、人は限りない慰謝を感じるのではないだろうか。抽象的な自然ではなく、肌で感じる地・水・火・風との交感、それが惹起する喜びといったらいいだろうか。

 J.クーパー・ポウイスの存在を知ったのは、ほんのひと月前だ。ボーヴォワールの「老い」の中に、その名前があった。調べるとイギリスの作家、哲学者(1872-1963)だった。日本ではこの「孤独の哲学」(みすず書房、1977年初版)と小説「ウルフ・ソレント」が訳されているくらいだが、フランスではかなりの著作が翻訳されて広く読まれている。
 ネットで500円で手に入れた。1991年の7刷。30年前の古本からはすえたようなあの匂いがした。手に取ると、カバーに見覚えがあった。書店のみすずのコーナーで何度も目にした記憶が、形にならずよみがえった。

 ボーヴォワールは「La Vieillesse」の中で「On old age」という著書から引用していた。その内容に強く引かれた。

 ポウイスは、老いの幸せとは地・水・火・風(彼はinanimateと表現し、訳書では《非情なもの》と訳される)に近づけることだという。日差しに身を温める老人と、日差しが温める火打ち石のかけらの間には、言葉にできない相互性があるとも書く。
 ポウイスが語る自身の子どもの時の思い出も印象深い。祖父がソファにじっと座ったまま、夕暮れの光と影を見つめている姿に驚くと、祖父は「わしの年では他のことはなにもできないんだよ」と話した。振り返ってポウイスは、祖父が謝ったのは間違っていた。老人には無為でいる権利があるのだと考える。

 わたしはポウイスの考えに共感する。「老いについて」の仏訳版を取り寄せて読んでみるつもりだ。

 毎朝、空が明るみ始めるころ散歩に出る。人気のない林を抜ける。鳥がさえずり、葉むらがそよぐ。海を望む道に出る。水平線に積雲が連なり、振り返れば東の山の端が明るみ、ときに焼けてくる。風は低地と丘で温度を微妙に変え、頭上でポプラを鳴らす。残月のかかる空では、雲が方角ごとに形をかえ、光で色合いは時々刻々変化する。ひとと出逢うことはまれだ。
 ポウイスのいう《非情なもの》の広がる空間は、変転してやまない。二度と同じ風景は見られない。そこを歩むと、こころがほどけてゆく。老いを生きているからこそ、強く感じられるようになってきた幸せだ。そして、孤独であることなしに、この慰めは得られないと実感する。
 

2021年10月20日水曜日

フランドン農学校の豚


 肉を食べなくなってから1年半ほどになる。と言っても、厳格に菜食主義を課しているわけでもない。旅先の宿で肉料理を出されればいただく。卵やチーズなどの乳製品も食べる。しかし、豚、牛、鶏などの食肉や肉加工品は買わない。魚も煮干し、ちりめんじゃこ、練り物を除き、食べない。家人に肉料理をつくらないようお願いしているわけではない。家人が買い物を担当し、わたしが毎日2人分をつくっている。

 肉食をやめたのは、いくつかの出合いが重なり、自然とそうなったというしかないが、一番大きかったのは、犬と過ごした10年の日々だ。

 ソファの横に寝そべる犬をなでると、柔らかい毛を通し心臓の鼓動が伝わってくる。心拍は驚くほど速い。「ああ、生きている」。小さな命の存在にストレートに打たれる。

 中上健次に「一本の草」というごく短いエッセイがある。夜中に目覚めた2歳の娘が作家の布団に入り込む。「私は頭を撫ぜる。この子ですら、死ぬのか、と思う。かつてたくさんの人が死に、いま母は、故郷でいつ死ぬかわからぬ状態にある。この子ですら死ぬのか」

 このいま撫でている犬もいつかは死ぬのか。そう思ったことが何度かあった。その「いつか」は思ってもみない早さで、去年の秋に訪れた。

 この夏、ペンションの女性オーナーと話していて、「犬からたくさんのことを教わりました」と言ったら、「一番は倫理観が強くなることですね」と返され、大いに納得した。

 今年1月、病院のベッドで、青空文庫にある宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」を読んだ。きっかけは忘れた。賢治の主な作品は読み、全集も不揃いだが持っている。でも、この作品があるのは知らなかった。読んで衝撃を受けた。ゆっくり読んでも30分はかからないので、ぜひご一読ください。

 賢治は友人への手紙で「私は春から生物のからだを食うのをやめました」「けれども先日『社会』と『連絡』を『とる』おまじなえにまぐろのさしみを数切たべました。食われるさかながもし私のうしろにいて見ていたら何と思うでしょうか」と記している。(賢治の11通の手紙を収めた「あたまの底のさびしい歌」から)。賢治が菜食主義だったことは知っていたが、1934年にこんな先駆的な作品が出ていたとは、驚いた。宮沢賢治は100年生まれるのが早かったと書いていたのはロジャー・パルバースだったか。

 「フランドン農学校の豚」を読んだ感想がネット上にあった。肉が大好きだという筆者は、「とても残酷なお話の部類に入る作品」だが、「ただの食育の話ではないところが面白いところ」と評したうえで、「『命を食べる』ことをはっと思い出させてくれて、もっともっと生きるために食べる『命』に感謝しなければならないと感じます」と綴っている。賢治が伝えたかったのは筆者がいう「もっと感謝して食べなさいという強いメッセージ」だったのだろうか。

 正反対ではないのか。人間が動物の命を奪い食することへの強い疑義、いや異議だったのではないか。賢治は肉を食べることの罪悪感を手紙に吐露し、作品では倫理的な面から罪を告発したのだ。肉食派を励ましているとは、どこを読めばそんな都合のいい解釈ができるのだろう。

 フランスのメディアや出版される本を見ていると、栄養学、環境、経済、文化、宗教など様々な面から、肉食をめぐる論議が高まっていることがわかる。現状を告発する屠殺場や養鶏場の実写映像も流れる。そんな本の中で目についたFlorence Burgat (フロランス・ビュルガ)の「L'humanité carnivore(肉食人類)」を少しずつ読んでいる。私のフランス語力では難物だが、読み甲斐を感じる。今春邦訳が出た彼女の「そもそも植物とは何か」を読み、刺激を受けたからだ。

 肉食の普及後進国の仏教圏だった日本にあって、いまや焼き肉、ステーキの店が人気を集め、健康や活力に肉食は欠かせないと喧伝される。「長寿者は肉を食べている」「あの肉汁がたまらない」などなど。本当だろうか。塩や調味料なしでも肉は美味しいのか。そもそも「おいしさ」とは、食べ物や食べる場所、その場の雰囲気について、作る側・提供する側が意図的に流布させた情報によって左右される、極めて主観的な感覚ではないだろうか。

 肉食をしないと健康を保てない?。商業主義によって、そう刷り込まれきたただけではないのか。きれいにパックされ、売り場に並ぶ肉からは、生きた動物の姿はまったく想像できない。いや連想させないように、食肉とリアルな牛・豚、2つの関係性は巧妙に遮断されてきた。殺生を戒めてきた遠い昔の倫理観は、もはやかけらも見られない。肉食とは極めて政治性を帯びた行為であり、文化である。

 肉食はやめよ、などと叫ぶつもりは毛頭ないが、肉食に対する疑問の声が殆ど聞こえてこない日本は、不思議な国である。

 肉食をやめてから、胃腸の調子はすこぶる良い。体重も下がり、健診の数値も改善された。肉を食べたいとはもう思わない。酒も同じころから飲まなくなった。変わったことといえば、左党から甘党になってしまい、毎日甘いものを食べないと落ち着かないことくらいだ。


2021年10月16日土曜日

老境に入る

 

 

 セイタカアワダチソウが見ごろである。自転車で外出したついでに「写真を撮ってきた」と家人に言ったら、「いやだ」と返された。大いに嫌われている雑草のひとつだ。昔、気管支喘息や花粉症の元凶だと騒がれ、目の敵にされていたことがある。それは誤解だとわかったが、そのときの悪名がいまだに尾を引いている。同じ黄色の強雑草オオキンケイギクよりよほど日本の風景に馴染んできたと思うが、庭に生えてきたオオキンケイギクを抜かずにそのままにしておく家が少なからずあるのを見ると、雑草に対する好悪について考えさせられる。オオキンケイギクは、生態系への影響が懸念される特定外来生物に指定され、駆除が推奨されているのだが。

 好き嫌いの感情は先入観や誤解からくることが多い。また身近なものや似ている人に対して誤解、偏見、差別は起きやすい。欧米人に対して抱かない負の感情を近い国の人達に向けるのもその表れだ。社会心理学者の小坂井敏晶氏の本にあったことの受け売りだが、その指摘に蒙を啓いた。

 ボーヴォワールの「La Vieillesse(老い)」に、フロイドの晩年が紹介されている。心臓の不調に苦しんでいた1922年、66歳のフロイドはこう書いている。「今年の3月13日、わたしはいきなり老境に入った。それ以来、死への考えが頭から離れなくなった」。フロイドは翌年、口蓋の医療処置を初めて受けると、亡くなるまでの十数年の間に計33回に上った手術に苦しんだ。

 わたしが心臓の手術を受けたのも66歳。これを境に老いをひしひしと感じるようになったため、この記述を読み、偶然の一致に驚いた。老いはいつのまにか訪れて、ある日気がつき愕然とする。しかし、確実に老境に入ったことを強く意識することも人によって起きるのだ。

 フロイドといえば、昨年9月に観た映画「17歳のウィーン フロイト教授の人生レッスン」を思い出す。原作はローベルト・ゼーターラーの「キオスク」。ナチスのオーストリア併合前後のウィーンを舞台に、たばこ店で働く少年と客のフロイドの間に生まれた交流を描いている。

 ゼーターラーには、山に住むエッカーという男の80年の生涯を書いた「ある一生」(新潮クレスト)という小説がある。オーストリアの山深い自然のなか、孤独に向き合い不器用だがひたむきに生きる男の姿に、こころが揺さぶられた。イタリアの作家パオロ・コニェッティの「帰れない山」と一緒に、今年の息子の誕生日に贈った。ともに忘れがたい作品である。


2021年10月8日金曜日

セートとハマゴウ


 久しぶりに海辺を自転車で走った。雲と風に包まれると、地上に生きる卑小な存在であることが五感で感じられる。それは言葉では尽くしがたい快感でもある。室内で過ごすときより、意識が気ままに転じていく。

 今朝、手に取ったロジェ・グルニエの「ユリシーズの涙」。偶然開いたページに、こんなことが書かれていた。

 「数年前のこと、セートの町にある『海辺の墓地』を訪れた旅行者が、ポール・ヴァレリーの墓はどこですかと番人に聞いたという。すると、その市職員は犬を起こし、命令するような調子で『ヴァレリー!』といった。犬が単独で、詩人の墓まで案内するようになっていたのだ」

 この文章は「謎」と題し、同書の冒頭に置かれたエッセーである。謎とは人間と動物の間に存在するある種の相互理解。グルニエは「この神秘的な交感を確かめたくて、この本を書いてみた」

 最初に読んだのは20年前。まだ犬は飼っていなかった。内容はすっかり忘れていたが、犬との10年の生活を経たいま再読すれば、まったく別の思いがわくだろう。

 セートは地中海に臨む小さな町。わたしは2回訪れたことがある。20代初め、ヴァレリーの詩「海辺の墓地」に誘われ、パリから、たしかペルピィニャン行の列車に乗った。窓口で「セート(Sète)まで」と言ったが、なかなか通じなかった。セを音引きせずにセットと言ったほうが原音に近い。セートはブラッサンスの生まれ故郷でもある。

 ヴァレリーの墓まで案内する犬はいなかったが、驚いたのは、近くのヴァレリー記念館をのぞくと、筑摩書房から出ていたヴァレリー全集が展示ガラスの向こうに鎮座していたことだ。

 昨年、セートについて、また驚かされた。アニエス・ヴァルダ特集の1本、「ラ・ポワント・クールト」を金沢で観たときだ。タイトルはセートにある漁村の名前だったのだ。この作品は1954年、彼女が26歳のとき、そこで撮った最初の作品。ヌーベルバーグを代表する作品のひとつ。

 
 さて、帰り道。自転車道脇によく見られるハマゴウはどうなっているかと目で探しながら、ペダルをこいだ。あった。やはりたくさん実をつけていた。夏に咲く青紫の花は、ローズマリーに似た芳香を放つ。実を取って、両手でこすり合わせてみた。花と変わらぬいい香りがした。



2021年10月5日火曜日

天然酵母パンは酸っぱい


 今朝、4時半過ぎに起きてパンを焼いた。早起きしたわけではなく、このところ起床は4時から5時にかけて。老いとともに早寝早起きになる。

 きのうの朝6時に小麦粉と水を混ぜ始めてから焼き上がりまで23時間かかったことになる。前夜のうちに生地がほどよく膨らみ、焼くことが多いが、天然酵母はイーストに比べ、酵母の数が圧倒的に少ないから時間がかかる。発酵状態は、その日の酵母の状態、気温まかせで、温度管理など人為的な手は加えないので、なるようにしかならない。味も形も作るごとに微妙に違う。まったく同じパンにはならないところが、生きた酵母種を使ったパンづくりの醍醐味だと思う。ファストフードの対極。食はスローフードにあり。

 しかし、作業に要する時間は焼成を含めてトータルで1時間半もかからない。待つ時間が圧倒的に長い。だから、仕事のある人でも決して無理ではない。


 酵母は小麦とライ麦から起こしたものとレーズン種を使っている。麦の酵母種は5月につくったものを、使った後に補充する形で粉と水、ハチミツを継ぎ足して使っている。最初はハチミツは加えなかったが、酸味の強いパンになったので、私のフランス語の先生Mさんのアドバイスもあって使うようになった。レーズン種も最初は干しぶどうと水だけで作っていた。ところが、志賀勝栄さんの「パンの世界」を読み直していると、「ボウルにぬるま湯を用意し、砂糖とモルトエキスを溶かし、レーズンを加えて混ぜる」と書いてあるではないか。

 同書によればフランスにはパンに関する政令があり、その中で「伝統的なパン」についても定義されている。天然酵母についての規定もある。天然酵母パン(パン・オ・ルヴァン)と名乗れるのはルヴァン種のPHが4.3以内、パンの酢酸含有量が900ppm以上のものだけ。「これほど酸味があると、日本人には酸っぱすぎると感じられるかもしれません」とあった。

 天然酵母パンは基本は酸っぱいのだ。5月につくったパンに強いサワー感があったのは失敗ではなかったと知り、安心した。ハチミツや砂糖を加えるようになって、酸味は和らいできた。

 自家製酵母でパンを焼くようになって、わかったことはいくつもある。その1つは、日本で作られるほとんどのパン、とりわけ軟らかくて甘いパンは、フランスのパンとはまったく異なる食べ物だということ。バゲットやカンパーニュとして売られていても、そうなのだ。

 


新しい庭

 15年住んだ石川県かほく市から、群馬県安中市の生家跡に建てた新居に引っ越してまもなく3週間になる。古希を目前に、まさに終の棲家。  築百年以上経つ蔵を改装して、ギャラリーと休憩  ・談話スペースにする予定。蔵と母屋の間は井戸水を循環させた池を設け、鳥や昆...