2022年4月30日土曜日

ハマナス

 



 きのう(4月30日)、かほく市の白尾灯台の下から自転車道に入ったら、ハマナスの群落があり、思わず愛車を停めた。「のと里山海道」沿いに設けられた自転車専用道で、ここを通るのは初めてだった。
 この花の記憶は、20代前半の8月に旅した北海道の野付半島にさかのぼる。その思い出と歌(知床岬)のせいか、夏のイメージが強いが、石川県では5月頃から咲く。しかし、ここでは末とはいえまだ4月なのにたくさんの花をつけていた。鼻先を近づけたら、いい香りがした。さすがバラ科だ。
 すぐ脇を自動車道が走るが、コンクリート壁でドライバーからはまったく見えない。大型連休が始まったので、交通量はかなり多い。

道端に咲くウマノアシガタ


 行きは里山を抜ける道を走った。去年の今ごろは、自転車に乗って坂道にかかると息がすぐに苦しくなった。手術からまだ3か月だった。
 いまはだいぶよくなった。道端を黄色く彩るウマノアシガタを今年も見ることができた。コンビニで新聞を買い、さらにイオンモールにある書店まで足を伸ばした。帰りに海ルートを取ると、ハマナスの花たちに出合えた。身近なところで自然を楽しめるのも、老いたればこそかもしれない。

オンソリ山とカタクリ


 白山市瀬波のオンソリ山(888.6m)を68歳の誕生日を記念して先日登ってきた。昨年1月に心臓の手術をしてからピークを目指す山歩きは初めて。心臓や足がどう反応するのか知りたかったこともある。

 オンソリ山(大恐山)は、書店で分県登山ガイド「石川県の山」を立ち読みしたとき、初めて山名を目にした。持っている古い版には記載のない山だった。登山口近くに広大なカタクリの群生地があるというのにも惹かれた。

 出かけた4月下旬、カタクリは終わっているようだったが、山頂近くではトクワカソウが見られるという。以前登ったことのある蟹ノ目山はこの花の群生が見事で、再訪したことがある。

 やはりカタクリはわずかしか咲いていなかった。1万坪という群生地はたしかに広い。しかし、ネットで「日本一広い」という記述を目にすると、全山をカタクリが覆う秋田の山を思い浮かべ、首を横に振るしかない。いまは仙北市になった旧西木村の群生地が有名だが、カタクリの広大な群生はそこに限らない。岩手県にもあちこちにあるようだ。どうも日本人は、ほかと比べることなく「日本一」と自慢したがる。「ここは日本一住みやすい」「ここの魚は日本一うまい」など様々に。そう言う人は決まって、他の土地に住んだこともなく、旅の経験も少ない。「ニッポンチャチャチャ」につながる心性である。

トクワカソウ

途中で見えた白山。山頂は眺望なし。

 ゆっくり歩いて山頂まで2時間。思っていた以上に急登が続いたが、ブナの新緑、残雪の白山、タムシバの白い花、トクワカソウに励まされた。怖いのは帰りだった。案の定、途中で足を取られて転んだ。左のヒザ下を擦りむいたが、その程度で済んだ。

 まだ里山程度なら歩けることがわかった。しかし、脚力は明らかに落ちた。急な下りを軽やかに追い抜いていくシニア男性の後ろ姿にため息が出た。あれに近い足運びができた日は遠い昔だ。もう山頂を目指すことはやめよう。頂きに立たなくとも、木々や花々を愛でることはできる。

 敬愛する辻まことは、ひたすらピークを目指すだけの、日本人の山歩きを馬鹿にしていた。日本では山歩きが文化にならないのは、山頂を極めてよしとする、そんなスタイルにあるのではないだろうか。負け惜しみに聞こえるが、山は一人で楽しむに限るとしみじみ思う。カタクリの花は見られなかったが、時期には登山者が数珠つなぎとなる山でなくてよかった。


盛りを過ぎたタムシバは香らなかった。

2022年4月24日日曜日

W.Hハドソン

アカメガシワの新芽

 朝、雑木林とぶどう畑の間を抜ける道を歩く。鳥たちの鳴き声がにぎやかだ。カワラヒワ、ホオジロ、シジュウカラは常連組。双眼鏡を手に歩くが、声と姿をゆっくり楽しませてくれることはなく、飛び去ってしまう。

 W.Hハドソンは「鳥たちをめぐる冒険」(講談社学術文庫)のなかで、人生の最大の楽しみの1つとして、「生物の生活領域の真っ只中に、いわば目にみえぬ姿となって入ってゆくこと。本当にそうしたいと思えば不可能ではない」と書いている。生物とは鳥たちのこと。「小さな小鳥のなかには私たちの罪のない覗き見を気軽にかなえてくれるものがいる」と。

  ハドソンはアルゼンチンのパンパに育った。自然とともに生きた幼年時代の思い出をつづった自伝文学の傑作、「はるかな国とおい昔」(寿岳しづ訳、岩波文庫)を読むと、鳥たちの世界に魅せられたハドソンの親和力を感じる。私にはとてもそんな鳥たちの警戒を解くことはできないが、上記の本を読んで、鳥たちへの興味がかつてなく湧いてきた。たしかに人間への距離のとり方は、鳥によって違う。シジュウカラは近くを通りかかっても、すぐに逃げたりせずにさえずり続けることが多い。

 鳥の鳴き声や姿から名前がわかる野鳥が少しずつ増えてきた。そうなると、鳥の存在がずいぶん身近に感じられるようになる。それは鳥に限らない。草や木々、雲でも名前をわかるようになると、「自然」と一括りすることになんの意味もなくなるのと同じだ。

2022年4月2日土曜日

春の里山



 金沢の平栗にカタクリを見に出かけたが、まだ時期が早くほとんど咲いていなかった。そのかわり、キクザキイチゲが思いのほか多く見られたのはよかった。ほかにショウジョウバカマやスミレ。木の花ではサンシュユの黃が鮮やかで目を引いた。コブシはまだつぼみだった。

 バスを使ったので、行きに1時間、帰りは野田山墓地の方へ下りたのでバス停まで2時間ほど歩き、何十年ぶりかに血豆ができた。去年1月に手術をしてからこんなに歩いたのは初めて。疲れることにより得られる、いい意味での脱力感を喜んだ。もう本格的な山歩きは無理だろうが、機会を見つけて里山や高原歩きを楽しみたい。

 小さな池のほとりで、持参の玄米おにぎりを食べた。玄米ご飯は、いやでもよく噛まざるを得ない。いやこの言い方は間違い。何度も噛むことで、米粒が糖化されて口の中に旨味が広がる。老いることのよさの1つは、シンプルの良さを再発見していくことだろうか。


 シンプルといえば、歩くことも移動手段として最も基本になるものだろう。出かけたのは土曜だったので、この里山を訪れる人は少なくなかったが、歩いてくる人は見かけなかった。歩いたことで、群生地を外れた、クルマからは目に入らないところにポツンと咲いていたカタクリに会うことができた。さらにスミレの花に次々留まるギフチョウを撮ることもできた。クルマを使うことで出会えないものやことも多いのだ。



新しい庭

 15年住んだ石川県かほく市から、群馬県安中市の生家跡に建てた新居に引っ越してまもなく3週間になる。古希を目前に、まさに終の棲家。  築百年以上経つ蔵を改装して、ギャラリーと休憩  ・談話スペースにする予定。蔵と母屋の間は井戸水を循環させた池を設け、鳥や昆...