2021年11月23日火曜日

冬のウグイス

トベラの実

センダンの実

 きのうからの荒天で散歩コースの雑木林の枯れ葉が路面に散り敷いていた。にぎやかだった春のさえずりのころに比べれば、耳に届く鳥の声もヒヨドリやモズ、キジとけたたましく、さみしくなった。

 チュチュ、チュチュチュッと薮から聞こえるスズメに似た声の主はだれだろう。少し前からスマホにBirdNETというアプリを入れたので、録音してみた。アプリを起動してマイクマークにタッチすると録音が始まり、analyser(分析する)を選べば、録音された声の鳥を識別してくれる。ただ、フランス語を使用言語にしているので、答えはBouscarle Chanteuse(Horornis diphone)と表示される。添えられた写真はウグイスに似ている。調べるとやはりウグイスを意味する仏語だった。あのホーホケキョからはとても連想できない地味な声だった。

 このアプリは、姿を見せない野鳥を声をたよりに特定するのにとても役立つ。10月末にヒッヒッヒと鳴いていたのは冬鳥のジョウビタキだった。渡ってきたばかりなのだろう。

 しかし、考えてみればウグイスは留鳥なのだから、さえずりをやめただけでどこかに渡っていったわけではない。近くで生息していても不思議ではない。うかつというか、わたしの思い込みで、鳴かなくなったので、無意識のうちに頭の中からその存在を消去していただけなのだ。目立つものばかりに気をとられてはいけないと、教えられた。


 

2021年11月15日月曜日

鳥の渡り





 きのうの朝、散歩からの帰り、自宅前まできてふと空を見上げると、ガンがV字形になって飛んでいく。慌ててスマホを出したが、たちまち遠ざかり諦めかけたところ、もうひとつの雁行が続いた。あとで画像を拡大して数えると、先の集団は19羽、後のは8羽だった。越冬のため、ここから10キロほど離れた河北潟に向かうマガンの渡りだろう。

 毎年、秋が押し詰まったころ、運が良いと朝の散歩のときに見ることができる。ときに赤ちゃんの鳴き声のような音に驚き、頭をめぐらして気づくときもある。
 はるばる旅してきた鳥たちが助け合うように飛ぶ姿や声を聞くと、胸がいっぱいになる。

 渡っていくガンたちは、幼い日に読んだアンデルセンの「野の白鳥」(「白鳥の王子」)を思い出させる。7、8歳のころだっか。姉が持っていたアンデルセン童話集にあった。白鳥に変えられた11人の兄の皇子たちが妹を網に乗せて海を渡っていく。途中、沖にある杭のような小さな岩に舞い降り、身を寄せ合ってからだを休める。大きく描かれたモノクロの挿絵を見ながら、布団に入って腹ばいで読んでいたことを思い出す。風が吹き波が高い北の海。王子と王女の運命にハラハラしながら、空想は遠い異国の空を駆けていた。本の世界に感動した初めての経験だった。

 ジャン・グルニエは「エセー 日々の生活」で、プルーストの「読書の日々」からこんな部分を引用している。

 おそらくわれわれの子供時代の日々のうち、本当に生きたと実感できたのは、なんとなく過ごしてしまったと思われるような日々、好きな本を一冊抱えて過ごした日々でしかない。

 ジャン・グルニエは、カミュの師としても知られるフランスの思想家。哲学的エッセイ「孤島」はすばらしい。

2021年11月13日土曜日

犬と歩いた砂浜


  荒天から明けたきょうは久しぶりに青空が広がった。昼過ぎから1時間ほど歩いた。雑木林を抜け、グランドゴルフに興じるシニアを横目に丘を下れば、砂浜にでる。飼っていたビーグルは、よくこの海辺に足を向けた。人影のない朝歩くことが多かったので、ときにリードを外して好きにさせた。若い時は脱兎のごとく走り出したが、年を重ねると遠くまで駆け出すことはなくなった。

 亡くなってから1年が過ぎた。砂浜を歩くと、愛犬と歩いた日々が自然に思い出される。


 上の写真は昨年10月12日に撮影した。その月の29日に亡くなったから、これが海辺を歩いた最後だった。日記によれば、この日は2時間半も歩いた。しかし、自宅近くの公園で力尽き、抱っこして家まで帰った。翌日と翌々日はその公園まで行くのがやっと。15日からは家から出なくなった。

 また、犬を飼いたいと思う。しかし、保護犬を引き取れるのは55歳など年齢制限がある。もちろんペットショップなら買えるが、自らの老いを考えなければいけない。しかし、考えてどうなる?

 ロジェ・グルニエの「ユリシーズの涙」を再読していたら、こんなくだりに出合い、思わずニヤリとした。

 人が犬を愛し、犬に愛されているとき、なにが不幸かといえば、それは人間の寿命と犬の寿命に一致が見られないことである。シモーヌ夫人が、こんなふうに電話してきたことを思い出す。

--わたしの犬が死にましたの。あなたはご存知でしょ。わたし、別の犬を手に入れたいのだけれど、どこか連絡先をご存知ないかしら?

 当時、彼女は齢95歳を数えていた。なんたる楽観主義か!

 そうだ。老いの覚悟を決めればいいのだ。

2021年11月12日金曜日

時雨と虹


  4日前から始まった荒天は夕方になって、ようやく収まってきた。北陸では11月になると、時雨れる日が多くなる。冬の先触れというと穏やかに聞こえるが、荒れた天候になることが多い。私には天が「長く暗い冬が今年もくるぞ」と断固とした態度でこちらに覚悟を迫ってくるように思える。

 時雨、時雨れるは、その洗礼を受けたことのない人たちには冬の季語として、詩的にひびく。私もそんな気候と無縁な土地に生まれ、育ったので、40年余り前、初めてこの天気に遭遇したときは驚いた。いきなり強い雨が振り出し、まもなく止む。ほっとしたのもつかの間、また雨の襲来。しかし雨雲はすぐに去り、日がさす。ときにアラレになり、師走が近づくとみぞれ模様になる。日本海側とその周辺だけに見られる天候だ。

 朝の散歩を習慣にしているが、強い雨と風に怯んで二の足を踏む。晴れ間は期待できないので、小康状態を見計らって出る。しかし、雨がやんでいる時間は30分と続かないから、途中で降られる。上下雨具でないとひどい目に遭う。

 しかし、悪いことばかりではない。時雨れると、虹が出ることが多いからだ。関東だと雷と虹は、夏の夕立を思い出させるが、北陸では雷も虹も初冬の風物詩になる。


 上の写真は10月下旬に自宅2階から撮ったもの。きょうもほんの数十秒、虹のかけらが見えた。

 雲と雨と光と風が目まぐるしく織り成す気象現象。その中を突き進めば、《非情な自然》に触れて、すこし心が晴れ晴れとする。

新しい庭

 15年住んだ石川県かほく市から、群馬県安中市の生家跡に建てた新居に引っ越してまもなく3週間になる。古希を目前に、まさに終の棲家。  築百年以上経つ蔵を改装して、ギャラリーと休憩  ・談話スペースにする予定。蔵と母屋の間は井戸水を循環させた池を設け、鳥や昆...