2022年3月31日木曜日

猫に教わる


 少し前に書いたジョン・グレイの「猫に学ぶ」を読んでいたとき、新聞の新刊広告で南木佳士のエッセイ集「猫に教わる」を見つけた。この作家の熱心な読者ではないが、思い出したように何冊かを読んできた。生まれが群馬県であること、秋田で暮らしたことがある点、熱心に山歩きをした経験があることの3点が共通していて、日本の現代作家の中で親しみを感じる数少ない一人だ。

 署名は「猫に教わる」だが、同名の1編のほかに、猫を題材にしたエッセイは「トラの命日」くらい。タイトルのエッセイは、通勤の途中で見かけた猫の母子を描写したもの。人間への警戒をすぐに解いて、母猫にじゃれかかった子猫を母猫が前脚で叩き伏せた姿に、「姑息で薄っぺらな」我が身を省みて、作家は「いま、この瞬間を懸命に生きる春の野生が、老いてしたたかになった身の傲慢さを浮き彫りにする」と自戒する。

 猫から学ぶという点ではジョン・グレイの本と共通するが、大半は作家の身辺雑記が占める。その中で記憶に残ったのは「じゃがいもの天ぷら」と題したエッセイ。西日本出身の若い研修医たちとの会話の中で、作家が好物のじゃがいもの天ぷらを話題にすると、「ええっ、じゃがいもの天ぷらなんて聞いたこともありません、と異口同音に驚かれた」という記述がある。私も作家のように、じゃがいもの天ぷらは好きだが、このエッセイを読んだ後、北陸出身の妻に尋ねると、育った家でじゃがいもの天ぷらを食べたことはないという返事だった。

 作家の「生まれ育った上州の山村の冠婚葬祭には必ずじゃがいもの天ぷらと地粉のうどんが出た。(中略)育ての親の祖母が作ってくれる夕食は煮込みうどんだけのことが多かった。そこにじゃがいもの天ぷらが加わればごちそうだった」

 作家は地粉のうどんと書いているが、私の実家では冬になると、母がよくおきりこみを作った。こね鉢でこね、手動の製麺機で伸ばし、ギアを換えて機械にかければうどん状になる。うどんと違うのは、白菜などを煮込んだ味噌仕立ての鍋の中に、打ち粉のついたまま麺を投じることだ。めんを茹で上げていないから、ぐつぐつと煮こむととろみが出る。ふうふうしながら食べると、からだの芯からあたたまる。

 ただ、作家の記述でおやっと思ったところがある。「やはりゆでたじゃがいもに衣をつけて揚げるのは特殊な食べ物なのか」。ゆでてから揚げるというのは初耳だった。作家の生まれた吾妻地方では、それが一般的だったのだろうか。情報をお持ちのかたがあれば、ぜひお聞きしたい。

 写真には、昨年師走に読んだ谷口ジローの「犬を飼うそして…猫を飼う」も入れてみた。涙腺が刺激された1冊。谷口の作品では「『ぼっちゃん』の時代」を随分前に読んだ。数年前からフランスのメディアに接するようになって、驚いたことの中に、フランスでの谷口の評価の高さ。日本よりよく読まれているのではないだろうか。宮崎駿については、仏ラジオの哲学番組でシリーズで取り上げられるなど折につけ紹介されている。知人のフランス人に「どんな存在か」と問うたら、「Dieu!」(神だ)と返された。


 

2022年3月26日土曜日

堆肥づくり

 


 コンポスターをネットで購入して、堆肥づくりを始めた。容器を買わなくても、段ボール箱を使って堆肥を作る方法が主に自治体のサイトでたくさん紹介されているが、写真のような不織布製の筒型の容器が使いやすそうで、使い捨てでもないので試してみることにした。

 くん炭、ピートモス、米ぬかを基材にして2月21日から野菜くずやコーヒーかすなどの投入開始。5日目には挿しておいた温度計は56度まで上がり、かき回すと湯気が上がった。暖かな室内に置いたので分解が促進されたようだ。堆肥ができるまで2,3か月かかると書かれているサイトが多かったが、3月24日に投入をやめた。野菜くずはほぼ分解され、温度も上がらなくなっていた。容器から中身を育苗に使っていたプラの衣装箱に空け、赤玉土と庭土を少し入れて混ぜて蓋をして庭に置いた。水をときどき加えながらひと月ほど様子を見て、野菜づくりに使う予定だ。

 野菜づくりを始めて30年以上になる。転勤のたびに市民農園を借りるというノマドファーマーの期間が長く、1か所に腰を落ち着けて栽培を続けることが困難だった。そんなこともあり、無農薬、有機栽培が理想だったが、現実はホームセンターで買ってきた堆肥や化成肥料を適当に施す安直な野菜づくりだった。


 時々読んでいた雑誌「スペクテイター」のバックナンバーの中に「土のがっこう」と題した特集があるのを知り、取り寄せた。この中に堆肥・育土研究所を主宰する橋本力男氏の「堆肥づくりは感性の扉」の記事があり、大いに啓発された。図書館から著書の「畑でおいしい水をつくる」も借りてきた。そこで分かったのは、普通に売っている堆肥と、橋本氏が指導する適切に管理・発酵された堆肥はまったく違うものだということだ。橋本氏によれば、微生物によって引き起こされる発酵は「生物燃焼」であり、堆肥づくりは高温で燃焼させる技術なのだ。

 思い出したのは、小麦酵母を使ったパン作りのことだ。パン作りに使う自家製天然酵母は、普段は冷蔵庫に保管している。作り始める2,3日前に冷蔵庫から出す。ライ麦と水を足し、砂糖か蜂蜜を少し加えてかき回す。一晩たつと、酵母の表面に細かな穴が空きぷくぷくと再発酵を始め、活性化したのがわかる。コンポスターの温度が上がらなくなってから米ぬかを足すと、翌日には温度が急上昇していることがあった。微生物による発酵の力を目の当たりした。パンと土作りに引き続き励んでみたい。

2022年3月20日日曜日

猫に学ぶ

 

下草の緑が広がってきた

 書店や図書館で本を手に取り、目次を一瞥し、中をパラパラとめくる。書き出しを読むことはあっても、中の文章を読むことはない。しかし、「これは自分が読むべき本だ」とピンと来ることがある。反対に、書評を読んで気になり手にしたものの、「読みなさい」と本から呼びかけられないこともままある。

 ピンと来て、読み始めたものの本の世界に入っていけないこともあるが、たまに大当たりを引くこともある。だから、本を読むことはやめられない。

 図書館で借りたジョン・グレイの「猫に学ぶ いかによく生きるか」(みすず書房)は、大当たりの1冊だった。ちなみに今年は前田利鎌の「臨済・莊子」、そしてグレゴリー・ベイトソンの「精神と自然 生きた世界の認識論」と岩波文庫で大当たりが続いている。今年はこの3冊を原書で読んだり、再読するだけでいいのではと思うほどだ。

 「猫に学ぶ」は読み出してほどなく、こんな下りがあり、ぐっと心をつかまれた。

 猫は哲学を必要としない。本性(自然)に従い、その本性が自分たちに与えてくれた生活に満足している。一方、人間のほうは、自分の本性に満足しないことが当たり前になっているようだ。人間という動物は、自分ではない何かになろうとすることをやめようとせず、そのせいで、当然ながら悲喜劇的な結末を招く。猫はそんな努力をしない。人間生活の大半は幸福の追求だが、猫の世界では、幸福とは、彼らの幸福を現実に脅かすものが取り除かれたときに、自動的に戻る状態のことだ。

 小学生のころまで実家で猫を飼っていたことがあるが、その後、犬猫とは疎遠な時間が続き、56歳から犬を飼い始めた。猫も嫌いではなく、この本を読んで、機会があれば飼いたくなった。この本はもちろん猫に限定して書いているが、 「本性(自然)に従い、その本性が自分たちに与えてくれた生活に満足している」のは、犬も同じだ。食べて寝て歩くだけの生活と言ってしまえば、身も蓋もなく聞こえるかもしれないが、それぞれの行為に無心に打ち込む姿にはいつも心を動かされる。

 こんな指摘にもうなづかされる。

 時間のなかを進んでいくというわれわれの自己イメージは、われわれはいずれ死ぬという認識を生む。そのために人生の大半を費やして、自分自身の影から逃げ回る。死の否定と、人間の魂の分裂は表裏一体だ。人間は自分の死を思い出させるものを片っ端から恐れ、その経験の多くを、自分の内なる無意識的な部分へと押し込む。人生は闇のなかでじっとしていようという闘いになる。それにひきかえ、猫は、自分自身の内部に闇を抱える必要がない。猫は昼の光のなかで生きている夜行動物のようだ。

 悲しみは動物と共通しているが、人間の場合、思考がつねに自分の身に戻ってくるので、悲しみが倍加する。この再帰的自意識が人間という動物の特別なみじめさの原因である。

 夏目漱石の小説のなかに、自分のうちへうちへととぐろを巻く自意識に悩まされる主人公がいたと思う。題名はわすれたが、ジョン・グレイが言うところの「再帰的自意識」と同じだろう。そう、そんな自意識がなければ、犬や猫のように屈託なく生きられるのだが。 

 


2022年3月5日土曜日

ヒメリュウキンカ

道端の土手に咲いていたヒメリュウキンカ

 北陸の冬は晴れ間が少なく、散歩や自転車に乗れる日がとても限られる。きょうは自転車でコンビニに毎日新聞(書評・今週の本棚が載っている)を買いに行き、図書館に寄って本を返した。行きは猛烈な向かい風、帰りは海沿いを追い風で走り、降り出した雨に追い立てられるように帰宅した。往復1時間半ほど。いい運動になった。自転車で遠出したのは今年は1月8日以来だ。

 きのうは珍しく晴れて散歩に出たら、ヒメリュウキンカが咲いていた。梅も花を付けていたが、秋間や榛名の梅林を見たことがある上州人としては、北陸の梅の木はとても貧相だ。日照が少なく、雪に見舞われるせいだろうか。

 当地に移り住んで13年になるが、この地方で春を告げる花といえば、ヒメリュウキンカだろう。もっとも、ヨーロッパと西アジア原産のこの帰化植物がいつからこんなに広がったのかは知らない。転勤で住んだ関東や東北で身近に咲いているのを見た記憶はない。ウィキペディアによれば、有毒成分があり、牛や羊など草食動物が摂取すると命にかかわるため、アメリカの州のなかには栽培を禁止しているところもあるようだ。
 

当地の梅は付ける花の数がとても少ない。


新しい庭

 15年住んだ石川県かほく市から、群馬県安中市の生家跡に建てた新居に引っ越してまもなく3週間になる。古希を目前に、まさに終の棲家。  築百年以上経つ蔵を改装して、ギャラリーと休憩  ・談話スペースにする予定。蔵と母屋の間は井戸水を循環させた池を設け、鳥や昆...