2021年10月16日土曜日

老境に入る

 

 

 セイタカアワダチソウが見ごろである。自転車で外出したついでに「写真を撮ってきた」と家人に言ったら、「いやだ」と返された。大いに嫌われている雑草のひとつだ。昔、気管支喘息や花粉症の元凶だと騒がれ、目の敵にされていたことがある。それは誤解だとわかったが、そのときの悪名がいまだに尾を引いている。同じ黄色の強雑草オオキンケイギクよりよほど日本の風景に馴染んできたと思うが、庭に生えてきたオオキンケイギクを抜かずにそのままにしておく家が少なからずあるのを見ると、雑草に対する好悪について考えさせられる。オオキンケイギクは、生態系への影響が懸念される特定外来生物に指定され、駆除が推奨されているのだが。

 好き嫌いの感情は先入観や誤解からくることが多い。また身近なものや似ている人に対して誤解、偏見、差別は起きやすい。欧米人に対して抱かない負の感情を近い国の人達に向けるのもその表れだ。社会心理学者の小坂井敏晶氏の本にあったことの受け売りだが、その指摘に蒙を啓いた。

 ボーヴォワールの「La Vieillesse(老い)」に、フロイドの晩年が紹介されている。心臓の不調に苦しんでいた1922年、66歳のフロイドはこう書いている。「今年の3月13日、わたしはいきなり老境に入った。それ以来、死への考えが頭から離れなくなった」。フロイドは翌年、口蓋の医療処置を初めて受けると、亡くなるまでの十数年の間に計33回に上った手術に苦しんだ。

 わたしが心臓の手術を受けたのも66歳。これを境に老いをひしひしと感じるようになったため、この記述を読み、偶然の一致に驚いた。老いはいつのまにか訪れて、ある日気がつき愕然とする。しかし、確実に老境に入ったことを強く意識することも人によって起きるのだ。

 フロイドといえば、昨年9月に観た映画「17歳のウィーン フロイト教授の人生レッスン」を思い出す。原作はローベルト・ゼーターラーの「キオスク」。ナチスのオーストリア併合前後のウィーンを舞台に、たばこ店で働く少年と客のフロイドの間に生まれた交流を描いている。

 ゼーターラーには、山に住むエッカーという男の80年の生涯を書いた「ある一生」(新潮クレスト)という小説がある。オーストリアの山深い自然のなか、孤独に向き合い不器用だがひたむきに生きる男の姿に、こころが揺さぶられた。イタリアの作家パオロ・コニェッティの「帰れない山」と一緒に、今年の息子の誕生日に贈った。ともに忘れがたい作品である。


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