2022年1月24日月曜日

犬の眼



 11日ぶりに外を歩くことができた。雪の日や荒天が続き、出かけられなかった。この間、父が亡くなり、葬儀のため群馬を往復するという思わぬことが起きた。前回散歩した14日は、強風で波の花が岸辺に吹き寄せられていた。その波の花を見た夜に340キロ離れた病院で、父は95歳で不帰の人になった。

 葬儀から帰宅して、ジャン・グルニエの「Sur la mort d'un chien(犬の死について)」を読み終えた。亡き愛犬の思い出や犬をめぐる思索を綴った90編の断章から成る、わずか76ページの薄っぺらでそっけない作りの、小冊子のような本だが、犬を飼ったことがある人が読めば、きっと何度も深くうなづくだろう。

グルニエの「犬の死について」
 
 拙い訳で少し紹介すると。
 「わたしは犬がそうするように、愛をもって振る舞えさえすればよいというシンプルな決まりを持ちたいものだ」

 「毎朝、犬たちはあなたを見つけに来る。そして、あなたへの愛を表す。彼らの一日はこうした愛と信頼の行動から始まる。犬たちは少なくとも意気込んでいるのだ」

 「私は、放浪と狩りという犬の本能を妨げたことに自責の念を感じる。私たちといたために、犬は仕事を失い、無為を強いられたのだ」

 「飼い主になつき、家を気に入った犬たちは、はたして自由である言えるのだろうか」

 「私が病気のとき、愛犬は私のように苦しんでいた」

 「私はしばしばつぶやく。『犬をもう飼わなかったら、人生は快適になることだろう』。そしてそう言いながら、もう飼わないとなれば後悔するだろうことが分かっているのだ」

 「愛情があふれるとき、不安を訴えるとき、犬たちは眼にいっぱい涙をためていた」

 グルニエの犬の眼の描写から、道浦母都子の短歌を思い出した。

 「わたくしの心乱れてありしとき海のようなる犬の目に会う」

 

 
 

2022年1月13日木曜日

波の花

 昨日からの雪は一段落したが、風は鳴り止まず、天気も目まぐるしく変わる。悪天候でこのところ散歩もままならず、昨日は終日、家にこもっていたので、少し歩いてくることにした。高松北海岸に出ると、波打ち際から、白い綿状のものが吹き飛ばされ、砂浜のうえを走っていくのが目に入った。

 あっ、これが波の花か!
 
        


 波の花といえば、奥能登の冬の風物詩として知られる。猛烈な季節風で打ち寄せられた波が泡状になり、花のように空に舞う現象だ。大荒れのきょうのような気象条件になれば、ここでも見られるのだ!テレビでは目にしたことがあるが、実際に見るのは初めて。


 
 
 いくつかの偶然が重なって、波の花に出会えた。家を出て、いつもの散歩コースを歩き始めた。丘を越えるコースに入ったが思い直して、海に向かった。のと里山海道のトンネルを抜ければ、目の前に海が開ける。大しけの波頭がトンネル越しに見えた。しかし、あられが落ちてきた。海辺に出ずに短縮コースで家に帰ろうかと一瞬思った。でも足は、騒ぐ海に吸い寄せられるように海辺に向かった。
 

2022年1月10日月曜日

読書回顧2021年

 

こんなに晴れる日は1週間に1回もない

 去年の読書ノートを開くと、読んだ本は1月3日のカフカ「変身・断食芸人」に始まり、師走の吉川幸次郎「杜甫ノート」まで101冊になる。数から言えばここ7年で最も多いが、谷口ジローの「犬を飼う」や青空文庫で読んだ国木田独歩の短編「小春」、つまみ食いしたマンスフィールド短編集もカウントしているから、100冊突破を意識して“水増し”した感もある。それでもこの7年は年間70から80冊くらいだったから、たくさん読んだ年だったとは言える。

 1月に心臓の手術で20日間入院し、その後も家で過ごす時間が多くなったことが大いに関係している。病気ばかりではなく、一昨年秋に10年間ともに過ごした犬を見送り、犬の散歩がなくなったことで読書時間が増えたこともある。

 読書ノートを繰ってみると、やはり小説や詩歌など文学関係がもっとも多いが、哲学や科学関係もそれぞれ10冊ほどある。総括すると、漢詩の面白さに目覚め、哲学では井筒俊彦とJ.クーパー・ポウイス「孤独の哲学」、山の本では断然、辻まことから多くを学んだ。

 漢詩ではなんといっても小津夜景のエッセー集「いつかたこぶねになる日-漢詩の手帖」と「カモメの日の読書-漢詩と暮らす」の2冊が、それまで持っていた漢詩のイメージをいい意味でぶち壊し、その普段着の和訳で漢詩をごく身近なものにしてくれた。例えば清代の詩人、厲鶚(れいがく)の晝臥(ひるね)という詩の書き出しが上記の本ではこうなる。

  浮き世の思いを

  さっぱりと洗い流して

  日ざかりの門をとざし

  ひとねむりする

 岩波文庫の旧版「中国名詩選(下)」(松枝茂夫選)では――。

 妄信 澡い雪いで尽く空ならしめ、

 長日 門を閉ざす 一枕の中。

口語の現代詩と漢文脈の文語体。同じ詩とは思えない。


 辻まことの本は4冊のうち3冊は40年ほど前に買ったもの。残りの「山からの言葉」も25年前に出た本だ。積読だった本を開くと、まったく古びない言葉と思想があふれていた。

 「辻まことの世界」に収められた「山の景観」から少し引用してみよう。

 「路のない高さに向かって踏みだしていく登山者の独断の背中には祝福のザックがあり、それには健康が詰まっている」「健康が生む機嫌のよさ。この実感を生きようとする私にとって、山と孤独はいつでも心をささえる大切な二要素だ」

 辻まことの言葉には、日本的なじめじめした情感がなく、さっぱりとした潔さがあり、その思想も開放的な個性が打ち出す強さと批判精神にあふれている。串田孫一のような曖昧模糊として内容が空疎な文章とは大違いだ。日本では山の本と言えば、まず串田が挙げられ人気もあるようだが、「山のパンセ」を読むくらいなら尾崎喜八の「山の絵本」の方をお薦めする。ただ、さすがに古びているが。

 タイトルの「パンセ」は、パスカルの著書に代表されるように、深い思索を意味するフランス語だが、串田の本に深い思索の跡は見られない。若菜晃子の「街と山のあいだ」という山のエッセー集を読んだら、串田の思い出をつづった1編があった。しかし、串田を尊敬するあまり敬語・謙譲語の厚化粧が酷く、使い方に誤用もあり、読むに耐えなかった。しかし、Amazonでは口コミ評価が高く、よく読まれているようだ。ほんわかとした文章が読みやすいからだろう。

 かつては山口耀久の本も美文がもてはやされたが、内容に深みはなく、哲学に欠ける。日本の山の文学、エッセーに読むべきものは少ない。山を歩いただけでは思索にならない。そもそも山や海といった自然を前にしたとき、まず言葉を失い、その後なにがしか文章を書こうとすれば哲学がなければ素朴な感想文にしかならないだろう。その点、文語でちょっと読みづらいが、小島烏水の「日本アルプス」は、日本の山岳文学における思想、表現を考えるうえで原点になると思う。

 昨年読んだ本ではないが、ロジェ・フリゾン=ロッシュの「結ばれたロープ」は無類の面白さだった。ノンフィクションならウェイド・デイヴィスの「沈黙の山嶺 第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト」が上下2冊、2段組の長尺だが、読書の醍醐味を満喫できる。 

 小説で面白かったのはスタインベック「怒りの葡萄」、バルザック「ふくろう党」、アンナ・ゼーガース「第七の十字架」、カザンザキスの「キリストは再び十字架にかけられる」、そしてマルセー・ルドゥレダ「ダイヤモンド広場」の計5冊を挙げたい。アメリカ、フランス、ドイツ、ギリシャ、スペイン・カタロニアの作家たちだ。

 「怒りの葡萄」を読んだのは、その前に読んだアーシュラ・K・ル=グウィンの「暇なんかないわ大切なことを考えるのに忙しくて」の中に、こんなことが書かれていたからだ。

 「ザグレート・アメリカン・ノヴェルの名を言え。さもないと命はないぞとおどされたら、私は声を絞りだして言うだろう。《怒りの葡萄》ですと」

 バルザックはここ数年、未読だった作品を読んだり、学生時代に読んだものを再読している。「ふくろう党」は遠い昔に読んだが、筋はすっかり忘れていた。バルザックの小説は、物語が展開する前に、芝居でいったら舞台上の大道具、小道具そして役者の性格の説明が延々と続くものが少なくない。それでとっつきにくいと言われるが、幕が開けば息を呑むドラマが繰り広げられる。「ふくろう党」はそんな前口上もすくなく、物語の世界に入りやすい。想像された長い物語というフランス語本来の意味でのロマンを楽しむのに、バルザックはとっておきの作家である。

 最後に本の値段について。値段の高い本、新刊本はほぼ図書館で借りた。フランス語の原書は8冊読んだが、あちらの本は和書に比べ製本、紙質が粗末だが、値段が安い。ただ残念ながら送料が高い。日本の本は年々高くなっている印象だ。物価上昇を上回っているのではないか。売れないことも原因だろうが、フランスの本のように作りはチープでいいから、もっと買いやすい値段にすべきだ。読者はシニアが多いのだから尚更そうしてほしい。このまま価格が上がり続ければ、本好きはますます図書館で本を求めることになる。

2022年1月5日水曜日

キムチ


 3年ぶりだろうか、キムチを漬けた。いただきものの白菜1株をとりあえず塩漬けしたあと、食品庫をみると以前使った唐辛子が残っていた。粗挽きと粉末の2種類。いつも漬けるときは必ず使ったアミの塩辛はないが、桜えびと濃く煮出した煮干し汁を使えばいい。唐辛子の袋に記された賞味期限はとうに過ぎているが、問題はない。ダイコンと人参を千切りして塩でもみ、すり下ろしたリンゴとニンニクや白胡麻、ニラなどで薬味(ヤンニョム)をつくれば、それなりの本格キムチになる。

 初めてキムチ作りに挑戦したのは40代のころだから、もう20年以上前だ。そのころは会社が東京だったので、東上野のコリアンタウンでキムチ用の材料を調達した。たしかコイワシの塩辛も売られていたので、買って帰った。本場の材料を揃えると、いい値段になる。

 自家製キムチを作るようになってわかったのは、日本で食べられるキムチと本場のものがまるで違うということ。日本製キムチは乳酸発酵していないものがほとんど。つまり酸味もうまみもない。砂糖をけっこう入れているものが多く、甘い。いってみればキムチもどきの食品なのだ。昔、中学校の同窓会に出たとき、絶品キムチだと薦められ、作っている農家まで買いに行ったことがあるが、甘すぎて食べられなかった。

 最初に作り方のお手本にしたのは、自然食通信編集部編「手づくりのすすめ」という本。奥付をみると1995年6月の第9刷になっている。先日、書店をのぞいたら、この本が増補改訂版として料理書の新刊コーナーに並んでいるではないか。うれしかった。同書には酒まんじゅうから始まって味噌、豆腐、梅干し、カマボコ、ハム・ベーコンまで計23種類の食品の作り方が紹介されている。キムチについては、できの良し悪しを左右する第1点として「塩漬け」を挙げている。たしかに茎の部分がしんなりしたタイミングで漬けるのがいいのだが、意外と難しい。

 数年前からは画家の渡辺隆次さんの「山のごちそう」(ちくま文庫)も参考にした。改めて両方の本を調べると、今回を含め私が作るキムチは唐辛子の量がかなり多いことがわかった。1週間ほどおいて食べ始めてみるが、どんな味になっているか楽しみだ。

 ちなみに白菜漬けは土井善晴流で漬けている。これで作ると、食べ進めているうちに乳酸発酵も進み、昔ながらの白菜漬けが楽しめる。5年ほど前までは11月の終わりになると、たくあん漬けの仕込みも欠かさなかった。市販のものは甘いうえに、ちゃんと干した大根をつかっていないのでパリパリとした食感もない。漬物に限らないが、手づくりに勝る食品はない。

新しい庭

 15年住んだ石川県かほく市から、群馬県安中市の生家跡に建てた新居に引っ越してまもなく3週間になる。古希を目前に、まさに終の棲家。  築百年以上経つ蔵を改装して、ギャラリーと休憩  ・談話スペースにする予定。蔵と母屋の間は井戸水を循環させた池を設け、鳥や昆...