2022年3月20日日曜日

猫に学ぶ

 

下草の緑が広がってきた

 書店や図書館で本を手に取り、目次を一瞥し、中をパラパラとめくる。書き出しを読むことはあっても、中の文章を読むことはない。しかし、「これは自分が読むべき本だ」とピンと来ることがある。反対に、書評を読んで気になり手にしたものの、「読みなさい」と本から呼びかけられないこともままある。

 ピンと来て、読み始めたものの本の世界に入っていけないこともあるが、たまに大当たりを引くこともある。だから、本を読むことはやめられない。

 図書館で借りたジョン・グレイの「猫に学ぶ いかによく生きるか」(みすず書房)は、大当たりの1冊だった。ちなみに今年は前田利鎌の「臨済・莊子」、そしてグレゴリー・ベイトソンの「精神と自然 生きた世界の認識論」と岩波文庫で大当たりが続いている。今年はこの3冊を原書で読んだり、再読するだけでいいのではと思うほどだ。

 「猫に学ぶ」は読み出してほどなく、こんな下りがあり、ぐっと心をつかまれた。

 猫は哲学を必要としない。本性(自然)に従い、その本性が自分たちに与えてくれた生活に満足している。一方、人間のほうは、自分の本性に満足しないことが当たり前になっているようだ。人間という動物は、自分ではない何かになろうとすることをやめようとせず、そのせいで、当然ながら悲喜劇的な結末を招く。猫はそんな努力をしない。人間生活の大半は幸福の追求だが、猫の世界では、幸福とは、彼らの幸福を現実に脅かすものが取り除かれたときに、自動的に戻る状態のことだ。

 小学生のころまで実家で猫を飼っていたことがあるが、その後、犬猫とは疎遠な時間が続き、56歳から犬を飼い始めた。猫も嫌いではなく、この本を読んで、機会があれば飼いたくなった。この本はもちろん猫に限定して書いているが、 「本性(自然)に従い、その本性が自分たちに与えてくれた生活に満足している」のは、犬も同じだ。食べて寝て歩くだけの生活と言ってしまえば、身も蓋もなく聞こえるかもしれないが、それぞれの行為に無心に打ち込む姿にはいつも心を動かされる。

 こんな指摘にもうなづかされる。

 時間のなかを進んでいくというわれわれの自己イメージは、われわれはいずれ死ぬという認識を生む。そのために人生の大半を費やして、自分自身の影から逃げ回る。死の否定と、人間の魂の分裂は表裏一体だ。人間は自分の死を思い出させるものを片っ端から恐れ、その経験の多くを、自分の内なる無意識的な部分へと押し込む。人生は闇のなかでじっとしていようという闘いになる。それにひきかえ、猫は、自分自身の内部に闇を抱える必要がない。猫は昼の光のなかで生きている夜行動物のようだ。

 悲しみは動物と共通しているが、人間の場合、思考がつねに自分の身に戻ってくるので、悲しみが倍加する。この再帰的自意識が人間という動物の特別なみじめさの原因である。

 夏目漱石の小説のなかに、自分のうちへうちへととぐろを巻く自意識に悩まされる主人公がいたと思う。題名はわすれたが、ジョン・グレイが言うところの「再帰的自意識」と同じだろう。そう、そんな自意識がなければ、犬や猫のように屈託なく生きられるのだが。 

 


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