荒天から明けたきょうは久しぶりに青空が広がった。昼過ぎから1時間ほど歩いた。雑木林を抜け、グランドゴルフに興じるシニアを横目に丘を下れば、砂浜にでる。飼っていたビーグルは、よくこの海辺に足を向けた。人影のない朝歩くことが多かったので、ときにリードを外して好きにさせた。若い時は脱兎のごとく走り出したが、年を重ねると遠くまで駆け出すことはなくなった。
亡くなってから1年が過ぎた。砂浜を歩くと、愛犬と歩いた日々が自然に思い出される。
上の写真は昨年10月12日に撮影した。その月の29日に亡くなったから、これが海辺を歩いた最後だった。日記によれば、この日は2時間半も歩いた。しかし、自宅近くの公園で力尽き、抱っこして家まで帰った。翌日と翌々日はその公園まで行くのがやっと。15日からは家から出なくなった。
また、犬を飼いたいと思う。しかし、保護犬を引き取れるのは55歳など年齢制限がある。もちろんペットショップなら買えるが、自らの老いを考えなければいけない。しかし、考えてどうなる?
ロジェ・グルニエの「ユリシーズの涙」を再読していたら、こんなくだりに出合い、思わずニヤリとした。
人が犬を愛し、犬に愛されているとき、なにが不幸かといえば、それは人間の寿命と犬の寿命に一致が見られないことである。シモーヌ夫人が、こんなふうに電話してきたことを思い出す。
--わたしの犬が死にましたの。あなたはご存知でしょ。わたし、別の犬を手に入れたいのだけれど、どこか連絡先をご存知ないかしら?
当時、彼女は齢95歳を数えていた。なんたる楽観主義か!
そうだ。老いの覚悟を決めればいいのだ。
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