自分の老いに気づくのは、どんなときだろう。わたしの場合、ある日ふと覗いた鏡のなかで、首の皮膚がたるみ老人特有のしわが深く幾重にもできていることを発見したときだった。いつの間に、こんな姿になったのだろう。手の肌を見れば、張りもなくなり細かいシワだらけになっている。何十年ものあいだ毎朝、洗面台の鏡のなかの自分と対面してきたはずなのに、変化に気づかなかった。
「人生の坂道はゆるやかなので、上っているのを感じない。文字盤の針が動いているのがわからないのだ」。シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「La Vieillesse(老い)」の中で引用されていたセヴィニェ夫人の言葉に、思わず本から目を上げ、虚空を見つめた。
さらに彼女はこんなことを書いている。「60歳になった顔を鏡で見せられ、それを20歳のときの顔と比べればびっくり仰天し、その姿が恐ろしくなる。しかし、私たちは時の経つのを意識することなく、きょうはきのうのように、明日はきょうのように進んできたのだ。それは私の愛する神の摂理による奇跡のひとつなのだ」
セヴィニェ夫人は17世紀のフランスの公爵夫人。娘に宛てた手紙で知られ、プルーストの「失われた時を求めて」では、「私」の祖母と母がたびたび引用している。
武満徹の言葉にも、セヴィニェ夫人と共通する老いの気づきを見つけた。「人間は漸次老いながら、しかし老いは突然のようにひとを訪れる。若さから老いへの階梯が眼にはとまらないように、とすれば、老若の断絶はやはり眼にはさだかではないが厳然と在るのであろう」(「武満徹エッセイ選」から)

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