日の出が遅くなるにつれ、散歩に出る時刻も少しずつ遅れる。明るみ始めた外に出ていく楽しみは、刻々と変わっていく空の変化、とりわけ雲と光の動きだ。一瞬として同じ姿にとどまらない空は、いつも飽きさせない。今朝の演出には思わず足がとまった。朝焼けの光に、水蒸気の薄く短いヴェールが何枚か浮かび上がった。見たことのない現象だ。以前は夕暮れに惹かれたが、老いとともに明けていく時間のほうが心安らぐ。ひとの一生を24時間に例えれば、今のわたしの年齢は日が沈んだあと、夜の始まりごろなのだろうが。
歩きながら、きのう読んだボーヴォワールの「老い」にあったモーリアックの言葉を思い出す。正確な訳か自信はないが、次のような部分だ。
「私はものや人と切り離されたとは感じない。しかし、生きていくことはこれからは自分のことをかまうだけで十分なのだろう。膝においた手にまだ流れるこの血、私の中で脈打つこの海、この潮の満ち干は永遠ではない。終わりにごく近いこの世界は、絶え間なく注意を求めてくる、最期の前まで常に。それが老いだ。なにも考えたくないが、私は存在し、そこにいる」(Nouvveaux Mémoires intérieursから)「続内面の記憶」と題して翻訳が1969年紀伊國屋書店から出ていた。
その後にあったラテン語の「carpe diem」は何を意味するのだろう。調べると、ホラティウスの詩の一節だった。
Cueille le jour présent sans te soucier du lendemain
あすを思いわずらうことなく、いまの日を摘め ボーヴォワールは「若いときよりもっと、高齢者はこの「carpe diem カルペ・ディエム」の時期になるだろう」と書いている。

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